五稜郭。切なくなることが分かっていながら見たのだが、やはり切なくなった。
負け戦と分かっていながらの土方の出兵要請を、榎本武揚に「死に場所を探しているだけだ」と見抜かれてしまい、思いを改めて本気で勝ちに行こうとする。土方歳三らしい。
自分も「いかに死ぬか」しか考えていない。死に場所を求めているといわれればそうだ。もちろん、自分が自殺することはありえない。標準化された心理テストを受けても、自殺する確率0%である。
それでも、「死にざま」を考えない日はないのだ。
自分こそ幕末に生まれていたら良かったのに、と思うのだ。こんな時代は関西弁でいうところの『スカ』である。空虚なのだ。
大河ドラマ『新選組!』。そして今回の正月時代劇。劇作家・三谷幸喜の味が心地よくブレンドされていた。舞台上で繰り広げられるお芝居をテレビ上でコミカルに描いているあたり、さすがとしかいいようがない。
個人的には、主演の山本耕史はもちろん、市村鉄之助役の池松壮亮が初々しくて良かった。新選組モノは、やはり男同士の絆だからね。
続編としては『西郷隆盛の最期』を切望する。もちろん『作・三谷幸喜』である。続編を期待させる作家だ。『ラスト サムライ』ごときに負けない作品ができるのは間違いない。
[追記(2006.1.9)]※正月時代劇『新選組!!』ファンは以下はお読み頂かなくても結構です。
その後、岡村という聞いたこともない御仁から二度に渡ってTBをいただいた。一度目は『皇族たちの真実』に対してのもの、二度目はこの記事に対して。
『皇族たちの真実』については、反論と思って読んではみたものの、論理的には反論と呼べるには程遠く、氏の持論を展開されているようなものだった。ざっと氏の皇室問題に対する過去記事にも目を通してみたところ、おおむね自分も納得できるものであった。自分との違いは「旧皇族に対する個人的な感情の有無」と「側室制度」くらいか。
側室制度についても、やりようによっては自分は賛同できる。まずは「開かれた皇室」がよろしくない。こんなものは戦後メディアが勝手に作り上げた考え方だ。ワイドショーで皇室の情報を流すとき、『ビバルディの四季』をBGMに使って気品を漂わせてはいるものの、結局は『のぞき見』なのである。「開かれた皇室」など、やめるべきなのだ。今上天皇に拝謁することなど、なかなか叶わないようにする。簾の奥で、どのような御顔をされておられるのかも見えにくいようにする。その中での側室制度は大いにあってよい。そのために京都にお隠れになられることもあってよい。
そもそも、連綿と続いている皇室について、戦後の実験思想ともいえる民主主義ごときで議論すること自体、馬鹿げているのだ。この辺り、氏との考え方にあまり差はないと思うのだが。
ただ、氏とまともな議論になりそうにないのは、どうも感情のほうが強く表れているためのようだ。二つ目のTBなど、氏のタイトル通り「いちゃもん」に過ぎない。自分が「こんな時代はスカだ」と書いたら、氏はこの言い回しのみに反応し、「だったら死ねばよい」という。
面識もない御仁に二度もTBを送りつけられた挙げ句、「死ねばよい」なのだそうだ。ある意味、御仁の社会的立場も顧みず、こんなアホーなことが書ける勇気には拍手を送ってもよい。自分もブログではアホアホなことを書いているからだ。さすがに自分は特定個人に対して「死ねばよい」とまではとても言えないが。
それにしても、こうやって見知らぬ人に読んでいただけるブログの威力というものは大きなものだ。
まあ、今回の岡村氏によるストーカーまがいのTBもプロレス的には歓迎してもよい。どこぞの名も知れぬインディーの選手が土足でリングをまたいできただけの話。だから、新たにエントリーを立てずに[追記]で応じる程度にしておこう。
[追記(2006.1.10)]
上記の追記(1月9日)を書いた後、岡村氏のブログにTBをお返しさせていただいた。それが昼前のこと。仕事を終えてから、高知龍馬空港のワンコインPCでブログチェックをして気が付いたのだが、自分が送ったTBは2つとも削除されていた。
唖然。呆然。笑ってしまった。なんだよ。せっかく氏とは実名同士で胸襟を開いて議論できそうだと楽しみにしていたのに。サヨク的な人って自分に都合の悪いTBは削除するという噂を聞いたことがあるが、本当にそうだな。
名指しで場外乱闘をしかけてきておきながら、こちらからほんの少しご挨拶しただけで何事もなかったかのようにするとはな。自分は売られた喧嘩は必ず買うことにしているのだが、肩すかしもいいところだ。
「おい、なんだオメエ、俺と戦えねえのか!?」と仕掛けてきたマイナー団体の選手が、1発軽く投げられたくらいで消えていったんじゃ話にならんよ。素直に「ごめんね」と言えばいいのだが、社会的に立場のある人のほとんどにおいてこうした部分の弱さがみられる。
面白いのは、トラックバックが削除されたその日の夜に、氏が「死に場所」という記事を書いている。この御仁、まだそんな言葉の上っ面の修正ごときで自分の記事の正当化を図ろうとしているのだ。そして相変わらず「どうしても死にたくなったら,自らの意思で呼吸を止めて死んで見せましょうね」だと言う。呆れた。
自分のブログの読者なら、自分が「どうしても死にたくなった」など微塵も考えていないことくらい理解している。読者の一人(主婦の方)から、「...岡本(原文ママ)さんの書いていることは支離滅裂ですね、死ねと言ったり不遜だと言ったり...」というメールをいただいたが、まったくその通りだ。
「どうだ!」とばかりに威勢よく道場破りに来ておいて、いざ試合となったら逃げて帰る。お家へ帰ったら、今度は独りで「馬鹿げてるよ」とかブツブツ呟くだけ。ただし、御仁が実名でブログをやっていることについては、自分は一定の評価はしているのだよ。
とにかく、社会的に立場のある人間も、所詮はこんな程度なのだ。だから自分はそんな立場なんぞ否定してきたし、自分自身のものさえ否定できる。これが自分の強さだ。
[追記(2006.1.12)]
今度は上記の1月9日の追記を書いたところ、岡村氏は1月10日に『なんだか良く解りませんが』というエントリーを立てている。そこでは、この自分の記事にリンクは貼ってあるものの、こちらの名前も出さず、TBも送ってこない。つまり独り言の続き。
読んでみれば「コメントがどうとか」言い訳ばかりで、ワケが分からない。こっちは実名ブログ。コメントを送るにしても実名で送るに決まっている。自分は「昼間のコメント」など見てもいない。
それにしても、勘違いしてTBを消すか? こっちは氏が送ってきた2つのTBの元記事に、丁寧にそれぞれ送り返しているのだから、万が一、片方のTBを削除したとしても、もう1つのTBで気が付くだろう。というか、いずれにしてもこちらのTBを削除したのは事実ではないか。
それから、1月11日午前3時にこの記事へのコメントが2つ付いていた。こうした匿名の非道なコメントは残し(36時間以上待ったが削除されない)、こちらから直球でお返しした実名のTBは削除(しかもたった数時間以内で)なんだから、本当に呆れるばかりである。
記事本文も滅茶苦茶だ。「新撰組を例に挙げられた以上,賊軍派としては仁義を尽くさざるを得ないでしょうね」と言う。こっちは氏とのやりとりの中で新選組を例に挙げたのではなく、自分のブログの記事(それもテレビドラマの一感想)として書いただけのことだ。それに、「死ねばいい」と「いちゃもん」をつけてきたのは氏のほうではないか。それなのに、「仁義を尽くさざるを得ない」と言う。誰に? 何のために? 新選組のことを論じているブログなど、他にも五万とあるではないか。
最後に「物の道理が解る人物と錯覚した自分が愚かであった」とある。氏のいう「物の道理」とは何か? 氏から仕掛けてきたことに対し、こちらが応じただけではないか。そんな人物に「物の道理」など言われると片腹痛い。ブロガーとしてのマナーを身に付けてほしい。他にもツッコミどころ満載のブログだ。
「昼間のコメントと別人であれば,争いは好みません」とある。繰り返すが、昼間のコメントなど自分は知らない。自分もこれ以上、氏のことについては触れたくもない。時間の無駄だからだ。
だが、また氏のほうから独り言にせよ今回のことについて触れてくるならば、全面的に受けて立つ。これらの追記を、新たに記事として見出しを付けて事の仔細を幅広く知ってもらおうではないか。今回の件、感情ではなく論理で勝負して負けることはない。当ブログは1日1,500〜2,000アクセスに到達するまでになった。氏のブログへのアクセス数増加には貢献できるだろう。
←ポチっと一押しに感謝。
関連記事:年始は古畑と新選組!!
最近のコメント