『いじめ』の犯人捜しという『いじめ』。
当ブログでは初期から『いじめ問題』に焦点をあてており、専門カテゴリーにも入れているほどである。世間では今さらながら、学校におけるいじめについて火がついたように議論されている。だが、ほとんど安易な『犯人捜し』に終始しているものばかり。マトモなものは無いのかと探していたら、マッコイ博士のブログにおいて、本来議論されるべき大切な部分が触れられていたので紹介する。
まずは新聞記事から。
いじめ、私は見ました…三輪中の同級生が両親に手紙
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20061025i4w7.htm福岡県筑前町立三輪中2年の男子生徒(13)がいじめを苦に自殺した問題で、文部科学省の小渕優子政務官らが25日、実態調査のため同町を訪れ、同校の合谷智(ごうや・さとし)校長や男子生徒の両親らと面談した。
ほかに町を訪れたのは、山谷えり子首相補佐官(教育再生担当)と安倍首相の諮問機関「教育再生会議」の義家弘介委員。
面談後、小渕政務官は男子生徒の1年時の担任教諭(47)の言動に言及、「(男子生徒への)いじめの誘因となった可能性がある」との認識を示した。
男子生徒の両親は小渕政務官らに対し、同級生から25日朝に受け取った手紙を読み上げた。聞いていた山谷補佐官も涙を流していたという。手紙の要旨は次の通り。◇
私は言いたいことがあります。私は○○君の大親友です。今はもう遅いけど、早くおじちゃんやおばちゃんにいじめにあっていることを話しておけば、自殺することはなかったと後悔しています。どんなに帰ってきてと言っても、もう帰ってきません。でも毎日夢をみます。夢の中の○○君は親や家族、みんなを悲しませていることを苦しんでいます。
本当にいじめはあったのです。私は知っています。見ました。だから学校も本当のことを言ってほしい。これ以上つらく悲しい思いをするのは嫌です。(○○君は男子生徒の名前)
(2006年10月25日23時51分 読売新聞)
これ、たとえ「ごめんなさい」と謝罪したとしても、この生徒だってこれからずっと親友を見殺しにしたことを背負って生きていかなければいかんよ。罪意識から解放されるための謝罪なんて、あってはいけない。謝罪した生徒たちには「謝罪したって何もならない。一生その罪を背負って生きていけ!」という言葉を投げかければよい。
政治家もマスコミも甘すぎる。一番バッシングしやすい暴言教師を叩くばかり。確かに、この教師はマトモではなかった。でも、直接いじめを行った生徒への指導は放棄するのか?
マッコイ博士の記事から引用。
色々と話を聞くと、いじめのきっかけを作った教師というのも確かにどうしようもないアホな教師のようですが、少なくとも自殺した生徒は教師にいじめられて自殺したわけではなく、同級生らからいじめられたことが直接の理由なわけです。
そ う考えると、いじめた生徒たちが一番悪いに決まっています。そして、そのきっかけを作った教師が次に悪く、また子供の異変に気づかなかった親にも責任があ るでしょう。そしてその次くらいに学校や教育委員会の管理責任などが問われる、順番としてはこういう感じだと思います。
このうち、 一番叩きやすい教師ばかりを叩いて皆が正義の味方か救世主にでもなったつもり、そして自殺した親はやり場のない怒りをとりあえずは教師や学校に向けること で憂さ晴らししようとしていると言った感じではないかと思います。しかし親にも責任があるわけですから、それは責任のなすりつけ合いでしかないわけで、私 としては親に到底共感できません。
そして一番の加害者である「いじめた生徒たち」についてはアンタッチャブルになってしまって、おまけに無邪気にも彼らにアンケートなんかしてその結果から早速教師への責任転嫁が行われています。
自分が受けた新聞社の取材で答えた内容とほぼ同じ内容だ。しかし、やはり今回も予想通り新聞社の期待する論調とは異なっていたため、採用されずであった。
もちろん教師に責任があったのはその通りでしょうし、そりゃあ教師は大人ですからそれなりの責任を取らせれば良いのだと思いますが、教師叩きで終わっては無意味どころか逆効果でしょう。
そう。そうなんですよね。結局、『いじめ』を糾弾するという大義名分で弱者の側に立ちながら、反論できない相手を叩く。こうした姿勢が『いじめ』の要素を構成しているということに気付いていない。生徒が教師を集団でいじめることだって可能だし、そういう事実は自分が学生の頃からあった。
こんなことを書くと、「お前は教師を擁護するのか!?」と文脈の読めない人間に文句を言われるかもしれないが、そんなわけないだろう。どっちかといえば、そんな教師には一発カチ喰らわしに行くタイプなんやから。クレーマーこそ、テレビとパソコンの前でギャーギャー言ってるだけで、現場では何も出来ん奴らだ。
もちろんいじめた子供達に何らかの罰や罪の意識を植え付けるような処理も必要なのかもしれませんが、まずはいじめの生じる原因を考えてみないといけないように思います。場合によってはいじめた子供の責任が問いにくい可能性もあるからです。
もしかしたら、現状ではどのような生徒であってもいじめる側にまわる可能性があり、いじめられる側にまわる可能性もあって、それを決めるのは偶然もしくは状況による可能性もあるという事です。
これまた本質的に大切な部分である。マスコミの論調は、やたらと薄っぺらいのだが、マッコイ博士の指摘することこそが真剣に考察されるべきポイントだ。
マスコミが薄っぺらいのは『センチメンタリズム』に酔っているからだろうと自分は思う。大衆世論も同じ。それが『ヒューマニズム』だと思い込んでいるのだろう。そんなものは、本当は価値のない『勘違い』なのだが。早くこのことに気付かなければ、日本には『似非ヒューマニスト』の自己陶酔・自分主義正義感だらけの人間ばかりになってしまうよ。
翻訳出版に関わらせていただいた本。『いじめの輪』のページを紹介しよう(クリックすると拡大します)。みなさん、ご自身は「どの役割を演じたことがあるか」考えてみて下さい。
いじめを無くすことはできないが、いじめの輪を断ち切ることは可能である。センチメンタリズムに浸っていないで、その方法があるということを本書からぜひ学んでいただきたい。
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など多数。
Posted by 奥田健次 いじめ・ハラスメント | Permalink
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