いじめのある現場で解決する策がある
ブログならではといえるコミュニケーションだったといえる。
先々週の記事になるが、まずブラジル在住のdesclassifica氏が『いじめは日本だけの現象かもしれない』という記事を書かれた。これに対し、自分は『いじめの国際文化比較』という記事を書いた。
その後、『404 Blog Not Found』のdankogai氏が『社会あるところにイジメあり』という記事を書かれ、自分やdesclassifica氏の記事を引用されつつ、いじめについてのご自身の見解を述べられた。
さらにその後、desclassifica氏『今、そこにあるいじめ』、dankogai氏『いじめの非対称性』、desclassifica氏『非対称でもいいじゃないか』と、それぞれ記事のやりとりがあった。こうした一つの記事がきっかけとなり、生産的な方向で議論されることは良いことだ(自分は、ちょっとしたストーカーへの対応に時間を取られ同時進行で議論できなかったが)。
それぞれの記事で反響があったようだが、dankogai氏が「これだけ多くの人にブックマークされながら、これほどTBやcommentが少ないというところに、いじめ問題の特徴が透けて見えるようだ(『いじめの非対象性』より)」との指摘は、的を射たものだ。いじめの問題の特に困難な部分は、見て見ぬふりをする多数の傍観者にあると言ってもよい。誰も、自分の疚しさに目を向けたくないものだ。
さて、自分は教育評論家ではない。ブログでは論文審査があるわけでもなく、自分のその時々に思ったことを綴っているので、あたかも評論家のように見える。しかし、繰り返すが自分は評論家ではない。
自分は実践している臨床家である。いじめの問題についても、実際の教育現場で直接、教師や子どもの間に入って解決のための取り組みをしている。
まず、念を押しておきたい。教育現場や会社組織の中で、目の前にあるいじめの問題について、「人間社会にイジメはつきもの」と達観したようなことを言っても仕方がない。また、「昔も今も変わらないだろう」という新自由主義者を支持してきた人によくみられる論調に対しても、それ自体が正当な理屈とは言えないだろうし、やはり目の前にあるいじめの問題解決には、まったく役に立たない。したがって、現場で実践している自分にとっては、こうした次元の論評にはあまり興味が無いのである。
以下の自分の記事をご理解いただくためには、まず順を追って一連の記事をご覧いただきたい。
desclassifica氏『いじめは日本だけの現象かもしれない』
当ブログ『いじめの国際文化比較』
dankogai氏『社会あるところにイジメあり』
desclassifica氏『今、そこにあるいじめ』
dankogai氏『いじめの非対称性』
desclassifica氏『非対称でもいいじゃないか』
実践家として指摘しておかなければならないことがある。いじめ問題を解決する方法として、『いじめられっ子の逃げ場が用意されていること』というのは確かに一つの解決策ではある。状況によってこうした解決策を選択したこともある。だが、これは最良の策ではない。どちらかというと、あまり推奨できない解決方法だといえる。
教師(大人)として目指すべきは、いじめのある集団の中で、『いじめっ子−いじめられっ子−傍観者』から構成される『いじめの輪』を断ち切り、『和解のための筋書き』を用意し、その集団にかかわった子どもにそれぞれの新しい役割を演じさせることである(Coloroso, 2004)。
もちろん、このことは本当に骨の折れる作業であって、容易なことではない。それは、実際に現場でこうした問題を解決するための支援を行ってきた自分が強く実感していることだ。教師には「いじめを解決する作業は、大河ドラマを作るレベルの話ですよ」と話してきた。
しかし、これは実現可能なことである。
いじめられた側がその集団から出ていくことは、いじめる側とその周りにいた傍観者達にとって悲劇的なことだ。読者諸氏においては、今まで『いじめられっ子の悲劇』は想像したことがあるかもしれない。しかし、いじめの問題は、いじめる側にも傍観者にとっても放置しておくと悲劇を生み出すということを、ほとんど意識して来なかったのではないか。
いじめっ子も、いじめに荷担した人間も、いじめを知っていながら何も出来なかった傍観者も、『和解のためのプロセス』を経ないまま大人になることは恐ろしいことだ。和解とは本当に苦しいことなのだ。
また、集団から出ていったいじめられっ子も、さしあたって不快な状況から逃れることはできるのだが、自尊心に傷が付いたままだったり、攻撃的になってしまったり、その他いろいろなマイナスの側面もある。「許し」とは、いじめる側や社会にのみ必要なことではない。いじめられた側が、いじめた側を「許す」ことほど、難しいことは無い。これは実に難しいことなのだ。
結論を言うが、ある社会状況においていじめが発生することは否定しない。だが、人間はそれを解決する知恵を持っている。解決のためには、読者諸氏の想像以上に『大人が干渉しなければならない』のである。放っておいて、子ども同士で解決すると思わないほうが良い。「今、そこにあるいじめ」に目を背ける教師や心理士がたくさんいることは嘆かわしいことだ。
和解のプロセスを経ずして大人になってしまうと、これはかなり厄介な社会状況を生み出す。大人社会では、干渉してくれる存在など、ほとんど無いからである。干渉する暇がない。知見と技術もない。だから、モチベーションもない。その結果、大人は和解を模索するよりも逃げること(あるいは攻撃すること)を提案しがちなのだろう。
こうした和解のプロセスを知らないために、子どものいじめに真正面から対峙しようとする大人が少ないことは当然のことである。それでも、子ども達のために、そしてこの国の将来のために、子ども達に和解のプロセスを経験させてやらねばならないのだ。
ところで、近々、いじめ問題についての良書が翻訳出版される。今回の記事が、絵空事のように思われるなら、ぜひともその翻訳書を楽しみにしていただきたい。いじめの輪を断ち切る方法、そして和解のプロセスというものがあるということを、ぜひ知って頂きたいと思う。
出版後、当ブログで改めて紹介する。
Posted by 奥田健次 いじめ・ハラスメント教育 | Permalink
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