いじめの国際文化比較
大変、興味深い記事だ。
当ブログの記事を読まれた上で、「いじめは日本だけの現象かもしれない」という記事を書かれた『ブラジリアン・ガールと不器用な俺の物語』というブログの著者、desclassifica氏からトラックバックをいただいた。
まずは「ブラジルには(日本のような)いじめが存在しない」とのことである。
desclassifica氏はブラジル滞在中の経験から、ブラジル人は「他人をいじめている暇などない」「自分が幸せになるので手一杯」であると実感されたようだ。
重要な指摘だったのは、
(ブラジル人は)他人を不幸にすれば相対的に自分が幸せになるとは考えない人たちだ。その点日本人は逆で、他人との相対的な関係性でしか幸せを自覚できないのかもしれない。だから次々にいじめのターゲットを作り出すのだろか。
という部分である。
戦後日本の場合、どんな人でも平均的な経済水準での生活が約束されている。少なくとも、通常、餓死することのない社会である。しかし、この「平均的な経済水準」というのが厄介で、その中での小競り合いが起きてしまう。この小競り合いの中で、同じコミュニティーの他者との「ちょっとした違い」が現れてくる。色々な意味で「あいつは(私たち仲間と)違う」と自分らと異なる他者を排除する土壌があるのだ。
desclassifica氏が指摘するように「(日本人は)他人との相対的な関係性でしか幸せを自覚できない」傾向が強くなってしまったことは否めない。
いじめが起きにくい考え方はこうだ。「ちょっと変わった奴だが、アイツはアイツ」「オレはオレで頑張っているし、そんなオレが好きだ」というセンスを持つこと。だが、日本人には「嫉妬」やら「優越感」などが入りやすく、得てして他者の足を引っ張ることに取り憑かれてしまいがちなのである。
日本では「足の引っ張り合い」がみられ、ブラジルではそんなことをしていると食えなくなるかもしれないから「背伸びし合い」をするのだろう。日本人は「アイツはずるい、自分は不満だ」と感じる人が多い。一方、自分がアメリカにいた頃に出会ったブラジル人の友人は「自分がどれだけ楽しいと感じるかが大事だ」などと言っていた。まさに、相対的な価値観と、絶対的な価値観の違いだ。
ちなみに、日本に限らずアメリカやカナダやイギリスなどで世界を驚かせるほどの悲劇に至った、いじめが原因で引き起こされた事件が多数みられる。desclassifica氏の記事は、こうした国際文化比較という側面で、われわれに大きな示唆を与えてくれるものだ。
確かなことは、日本は今、急速に新自由主義(または拝金主義)の社会に向かっている現実だ。自分は損をしたくない、だから強い者についておこう。このような社会では、いじめの問題はさらに悪化していくことは間違いない。日本のリーダーがこんなことをしているのだから、そんな国が作る教育がマトモなわけがない。
自分は、いじめ問題をかかえる小学校に出向いて解決の実践を色々と提案している。はっきりいって大変な仕事なのだ。まず、この問題から逃げようとする教師の多いこと。本音を言えば、こんな教師には殺意さえ芽生えるのだ。まあ、これはまた別の機会に書くことにしよう。
自分は『奥田流・無人島グループエンカウンター』を提案している(まだ、実現していないが)。いじめのある学級の子ども全員を無人島(様々な仕掛け付き)に送り込む。そこで、力を合わせるまでは脱出できないように仕掛ける。「いじめなんかしていたら、お前ら全員、死ぬぞ」ということを子ども自身に気付かせるのだ。最初はいざこざが絶えないだろうが、いざこざやっているうちは絶対に脱出できない。全員がそれぞれの力を合わせたときに初めて、無人島を脱出できる。こんな究極の場面では、いじめを無くすことが可能なのだ。脱出できたときの子ども達の達成感は、他では味わえない程のものになるだろう。
無人島は利用していないが、この方法のエッセンスはすでに使っている。賢い読者ならば、この無人島式の狙いが分かるはずだ。
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など。
Posted by 奥田健次 いじめ・ハラスメント教育 | Permalink
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