子宝思想
日本の子宝思想は平安時代から今日まで続いている。
子どもを大切に育てるという文化であるが、その文化もいろいろだったようだ。子どもは神様から授かったもの。だから大切にしなければならない。大切にしましょう。という考え方。
一方で、子どもは我が宝。自分の宝をどのように使おうと自分の勝手。という考え方もあった。
わが国の現在をみてみると、子どもをペットのように育てていたかと思うと、子どもが言うことを聞かなくなれば殴り殺してしまう。自分のものなのだから、何をしてもよいという思い込み。こんな雰囲気が蔓延しているのだ。
たとえば、アメリカでは子どもは自分の宝というよりも、子どもは社会の宝という観念が強いようである。アメリカの場合、子どもを神様から授かったと言うとき、創造主としての神という具体的意識を伴う。だが、日本の場合は八百万のカミであって、具体的なイメージは伴わない。
したがって、アメリカでは親となった以上、子どもを一人前の社会人にして社会に送り出すことに義務と責任が生じる。この義務や責任を果たせない親は親ではないのだ。アメリカの法律をみても分かるように、教育に関する法律には罰則規定がある。日本にはそれが無い。
日本では、親として不適当な人間から子どもを救い出そうとする意識が少なすぎる。社会全体で育てよう(守ろう)という意識も低い。自分の宝がひどい目にあったら許せないが、他人様の宝は他人様のもの。こういう考え方が蔓延っている。
どこか「あの家庭に生まれた子どもは可愛そうだけど、それも運命かな」という同情だけで済ませている傾向がある。北朝鮮の拉致被害者に対する政府(国民)の対応をみても明らかだ。
比較すると面白い話がある。日本では、親の言うことを聞かなくなった(あるいは大きな問題を起こした)思春期前後の子どもに対し「お前なんかウチの子で はない」と言って追い出してしまう。家の中に入れずに反省させようとする。場合によっては本当に勘当(親子の縁を切られてしまうこと)もある。思春期の子どもの中には、追い出されたらそのまま家から出て行ってしまう子どももいる。
一方、ア メリカではそういう場合「お前はとても外に出せない」と言って、自分の家で深く反省するまで軟禁してしまうそうだ。つまり、外で遊ぶ権利を一時的に剥奪するわけ だ。
もちろん、アメリカでは放っておくと人間は悪いことをしてしまうという(性悪説というよりも原罪)を十分に意識しているので、法によるコントロールが必要だったのだろう。
他方、日本について考えてみよう。日本には子宝思想があるからといって単純に「どの家も子どもを宝のように大切にしているはず」とみなし、今後も法によるコントロールを行わないならば、今日のような子育ての破綻による諸問題を解消することは不可能だと思う。
子宝思想。これは大人にとって都合の良い身勝手な言葉なのかもしれない。
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